翻訳者の目で文章をみる

タイトルの「翻訳者の目で文章をみる」は「ドキュメントハックス-書かない技術 ~ムダな文書を作り方からカイゼンする~」の4章に出てきた見出しです。

自分の書いた文章が判りやすいのかを判断するための基準として他言語に訳した文章でも意味が通じるのか考えてみなさいということです。文系で物書きを得意とする人に聞いてみると割とポピュラーな考え方だそうだ。自分の書いた文章を読み直していても、自分では判っている事柄を書いているので、どうしても「判り難さ」の評価が出来ないでいる。想定する読者が決まっている文章であれば、想定する読者の視線で考える事ができるのだけど、自分と同程度の人を想定している文章だと何度も繰り返し読んでみないと判らない。

他言語の視点ということで、翻訳サイトを使って自分が書いた文章を一度英語へ翻訳してから、翻訳された英語を日本語に翻訳しなおしてみる。英語から日本語に翻訳した文章と元の文章を比較して読みやすい文章であれば悪くないでしょう。ということなので、前の段落を試してみました。

原文→英語

It is to think about whether a meaning knows even the sentence that I translated for the other language as a standard to judge whether it is easy to understand one’s sentence that I wrote. It seems to be a way of thinking that is popular comparatively when I ask the person who is good at composition in a faculty of liberal arts. Because I write a matter understanding by oneself even if I read over one’s sentence that I wrote again, it is never possible for evaluation of “the difficulty to understand” it. Though I can think for the eyes of the reader to assume if it is the sentence that a reader to assume is decided on, I do not understand it unless I repeat it many times when it is a sentence assuming a person at the same level as oneself and read it.

英語→日本語

それは、意味が私が標準としての他の言語が私が書いたその人の文を理解することが簡単かどうか判断するために翻訳した文さえ知っているかどうかについて考えることです。それは、私が誰が教養学科学部で構成が得意かについて人に尋ねるとき、比較的に人気がある考え方であるようです。たとえ私が私が再び書いたその人の文を読み終えたとしても、私が単独でわかっている問題を書いて、それは「わかる困難」の評価にとって決して可能でありませんそれ。それが装う読者が決心する文であるならば私が装う読者の目のために考えることができるけれども、それが自分と同じレベルで人を装っている文で、それを読んだとき私がしばしばそれを繰り返さない限り、私はそれを理解しません。

どうでしょうか。なんだか、判るような、判らないような・・・

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